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第1回 由来

(2022.08.09 update)


 今でこそこの変奏曲は有名ですが、バッハが出版した楽譜に記された題名は「アリアと変奏」で、当初から「ゴルトベルク変奏曲」と呼ばれていたわけではありませんでした。

 J.N.フォルケル(1749~1818)が、バッハの息子らに聞いた話の中に、この変奏曲のことが出てきます。

〔ゴルトベルク変奏曲は〕ザクセン選帝侯宮廷駐在の前ロシア大使カイザーリンク伯爵の勧めによって生まれた。伯爵は、しばしばライプツィヒに滞在しゴルトベルクを連れて来てバッハから音楽の教授を受けさせた。伯爵は病気がちで、当時不眠症に悩まされていた。

 同家に居住していたゴルトベルクはそのようなおり、控えの間で夜をすごし、伯爵が眠れないあいだ何かを弾いて聴かせねばならなかった。あるとき伯爵はバッハに、穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た。変奏曲というものは基本の和声が常に同じなので、バッハはそれまでやりがいのない仕事だと考えていたが、伯爵の希望を満たすには変奏曲が最もよいと思ったのである。しかし、この頃バッハの作品はもうすべてが芸術の模範というべきもので、この変奏曲も彼の手でそのようなものとなった。しかも彼は変奏曲の模範としてこれ一曲しか遺さなかった。伯爵はその後この曲を「私の変奏曲」と呼ぶようになった。彼はそれを聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやってくると永年のあいだ、「ゴルトベルク君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ」といいつけるのだった。バッハは、おそらく、自分の作品に対してこのときほど、大きな報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が百枚詰まった金杯をバッハに贈ったのである。

(『バッハ小伝』フォルケル著、角倉一朗訳、白水UブックスP.94~95)

 この本が書かれたのはバッハの死後50年経ってからで、この逸話中の、演奏した人の名前からゴルトベルク変奏曲と通称されるようになっていきました。

 ゴルトベルクは、卓越した技術を持つ鍵盤楽器奏者だったそうで、カイザーリンク伯爵と面識がありました。伯爵の息子とゴルトベルクは年齢が近くて仲が良く、二人ともバッハの元で学んだことがあった間柄だったからです。

 しかし、この曲が出版された時、ゴルトベルクはわずか14歳。いくら名人でも若すぎて、ゴルトベルク変奏曲のような大作を弾ける年齢と思えないので、私はこの逸話の信ぴょう性は低いと思っていました。

 バッハはこの少し前、ドレスデンの宮廷からザクセン宮廷作曲家の称号を得ていますが、この称号をバッハに授与した人物がカイザーリンク伯爵でした。なので、その返礼にゴルトベルク変奏曲の出版譜を贈り、その後、ゴルトベルクが弾いて聴かせたということではないかと思っていたのです。

 しかし最近になって考えが変わりました。ゴルトベルク変奏曲を得意とするP・ゼルキンが、来日公演(2017年8月)に先立つインタビューで語ったことによると、ゼルキンさんは14歳の時にはゴルトベルク変奏曲を弾いていたというのです。ならば、フォルケルのこの逸話自体もあながちフィクションではないのかも、と思っています。

 この逸話の後半には、「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した」(『バッハ小伝』フォルケル著、角倉一朗訳、白水UブックスP.95)とあります。この私蔵版は1975年にストラスブールで発見されました。フォルケルの逸話が、全て想像の産物ではないことを示していると思います。

 また、「不眠症の伯爵が依頼した=快眠を得られる曲」と思いがちですが、フォルケルの文章をよく読むと「眠れぬ夜に気晴らしになる曲」とあります。眠れぬ夜を快適に過ごすための曲であり、この曲で深い眠りについたということではないということになります。

クラヴィーア練習曲集について

 ゴルトベルク変奏曲が含まれているクラヴィーア練習曲集についても触れたいと思います。

 この曲集はバッハの鍵盤音楽の集大成で、唯一の自費出版事業となりました。

ライプツィヒ・聖トーマス教会の前任者、J・クーナウは1689年から1700年にかけて2つの組曲集を含む4巻の鍵盤曲集をライプツィヒで公刊していました。クーナウの初めの2集のタイトルが「クラヴィーア練習曲集」なので、クーナウの後任として聖トーマス教会に着任したバッハもそれに倣ったものと言えます。

 クラヴィーアとは、ドイツ語で鍵盤楽器(キーボード)の総称です。練習曲というと、今では指の鍛錬のための曲というイメージがありますが、そういう意味だけではありません。当時は鍵盤楽器の曲を括るための題名として使われてもいました。

バッハのクラヴィーア練習曲集は、以下の4部からなります。

第1部  6つのパルティータ 1731年出版

第2部  イタリア協奏曲ヘ長調、フランス風序曲ロ短調 1735年出版

第3部  前奏曲とフーガ、讃美歌による様々な21の前奏曲、

     4つのデュエット(オルガン用作品) 1739年出版

第4部  アリアと変奏(ゴルトベルク変奏曲) 1741年出版

 バッハは10年がかりで4冊出版しましたが、この配列はゴルトベルク変奏曲に求心的集約があると思います。そう思う根拠を書きます。

 クラヴィーア練習曲集第1部は6つのパルティータ。これは舞曲集で、当時流行していた種々の舞曲(アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエット、ジーグなど)からなる曲集で、各パルティータは、まず舞曲ではない楽章で始まります。

パルティータ第1番

〔前奏曲、アルマンド、コレンテ、サラバンド、メヌエット1・2、ジーガ〕

パルティータ第2番

〔シンフォニア、アルマンド、クーラント、サラバンド、ロンドー、カプリッチョ〕

パルティータ第3番

〔ファンタジア、アルマンド、コレンテ、サラバンド、ブルレスカ、スケルツォ、ジーグ〕

パルティータ第4番

〔序曲、アルマンド、クーラント、アリア、サラバンド、メヌエット、ジーグ〕

パルティータ第5番

〔前奏曲、アルマンド、コレンテ、サラバンド、テンポ・ディ・ミヌエッタ、パスピエ、ジーグ〕

パルティータ第6番

〔トッカータ、アルマンド、クーラント、エール、サラバンド、テンポ・ディ・ガヴォット、ジーグ〕

 具体的には、第1番は前奏曲、第2番はシンフォニア、第3番はファンタジア、そして第5番は前奏曲、第6番はトッカータが最初の楽章です。ですが、後半部の最初にあたる第4番は「序曲」(ウーヴェルトゥーレ)で始まります。これに対応するように、30の変奏からなるゴルトベルク変奏曲でも、後半の最初にあたる第16変奏に序曲の表示があります。

 クラヴィーア練習曲集第2部は、当時ドイツよりも音楽の先進国と考えられていたイタリアとフランスの作風をバッハが極めた証ともいえる曲が含まれています。フランス様式による「フランス風序曲」と、イタリアの協奏曲様式で書かれた「イタリア協奏曲」です。そしてゴルトベルク変奏曲にもイタリア様式(第13変奏)、フランス様式(第16変奏)で書かれているものがあります。

 クラヴィーア練習曲集第3部は、前奏曲とフーガに、様々な讃美歌による21の前奏曲と4つのデュエットが挟まれる形になっています。それに呼応するようにゴルトベルク変奏曲は30の変奏が両端のアリアによって挟まれています。

 こうしてみるとクラヴィーア練習曲集第1部から第3部までの特徴が、第4部のゴルトベルク変奏曲に集約されていると考えることができるのです。

髙橋 望

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