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第4回 チェンバロか、ピアノか!?

 バッハの時代には、スタインウェイやベーゼンドルファー、ヤマハなどいわゆる現代のピアノ(モダンピアノ)はありませんでした。では、バッハの音楽を現代のピアノで弾くのは、相応しくないということでしょうか?

 バッハの時代の鍵盤楽器は大きく分類してオルガン、チェンバロ、クラヴィコードの3種でした。

 オルガンは、管に空気を送り込むことで音を出す楽器で管楽器に近いと言えます。

 チェンバロは、鳥の羽軸で弦をはじく仕掛けで音が出ます。ただし、オルガンもチェンバロも1音ごとに強くしていくとか、弱くしていくということはできません。

 クラヴィコードは、タンジェントという金属片が下から弦を打つ仕掛けで音が出ます。楽器のサイズとしては一番小さく、多少の強弱は表現できますが、全体の音量が小さいので、広間やホールでの演奏には適していません。

 これらの楽器とは異なる仕組みの楽器を1709年にイタリアのバルトロメオ・クリストフォリ(1655~1731)が開発し、ピアノ(弱く)からフォルテ(強く)まで演奏できることから、ピアノフォルテという名前を付けました。これがモダンピアノの前身です。

 クリストフォリが開発したピアノフォルテは、チェンバロのように弦をはじく仕組みではなく、弦をハンマーで叩く仕組みでした。これにより音の強弱を付けることが可能になりました。この構造は画期的で、ピアノフォルテの製造は次第にヨーロッパ中に広がっていきます。

 バッハの知人でありザクセン地方の優秀なオルガン製作者だったゴットフリート・ジルバーマン(1683~1753)も、その時流の中でピアノフォルテを制作しています。そしてその楽器をバッハも弾く機会を得たことが分かっています。

 ではバッハを演奏するのに相応しい楽器は?

 バッハの時代を思い起こしてみてください。これらの楽曲を弾こうとするならば、所有している楽器を弾くか、目の前にある楽器を弾くほかなかったのです。ある人は自宅にクラヴィコードを所有し、ある人は宮廷でチェンバロを弾き、ある人は教会でオルガンを弾いたのだと思います。ゆえにバッハは、それらの楽器の総称であるクラヴィーアという言葉を曲名に用いたのではないでしょうか?

 その言葉には、「自身にとって身近な鍵盤楽器」というニュアンスもあると思います。

 バッハは2声のインヴェンションと3声のシンフォニアの楽譜の冒頭に、次のような言葉を書き込みました。

 誠実なる指導、これによってクラヴィーアの愛好家、なかんずく、特に勉強を希望する者たちに、1)2つの声部を純粋に演奏することを学び、さらに上達した人たちには、2)3つの声部を正確かつ適切に処理することを学び、それによってなによりカンタービレに歌う奏法を達成して、それとあわせて作曲することへの事前の強い関心を呼び起こすことに至る、明確な方法が示される。

(《J.S.バッハ インヴェンション》園田高弘校訂、春秋社 序文より)

 この文章には、バッハの鍵盤音楽を演奏する際の3つの大切なことが示されていると言えます。

1、 クラヴィーア愛好家、クラヴィーアを勉強する者たちにという箇所

 クラヴィーアという言葉を用いているので、特定の楽器を指していないことがわかります。

2、3つの声部を正確かつ適切に処理することを学びという箇所

 複数の声部が、いつでも明確に聴き分けられるように演奏することが求められています。

 バッハの音楽は、各声部の独立とそれらが同時進行したときのハーモニーの美しさが際立っています。それを実現するめたには演奏にも明快さ、明晰さが求められます。これはモダンピアノでも十分に可能です。しかし、弦を開放し使い方によっては音に濁りを生じさせてしまうダンパーペダル(右側のペダル)は、各声部の明晰さを失わず、さらに響きを豊かにするためには繊細な使い方が求められます。バッハを演奏する際にペダルを使ってはいけないという人もいます。私はモダンピアノに付随する機能はフルに(しかし、節度を持って)使った方が良いと思います。

3、カンタービレに歌う奏法という箇所

 カンタービレとは、イタリア語で「歌うように」の意味です。歌うように演奏することが求められています。

 歌うという行為は、身体が楽器なわけですから、自分の心に一番近いところから発せられる音楽だということです。ゆえに音楽を通じて相手に気持ちを伝えやすいのです。ヴァイオリンでもピアノでも、人が歌うような表情に富む演奏できれば、同様に相手に気持ちを伝えやすい。だから歌うことが大切だと言っているのだと思います。

 バッハの同時代の人たち、たとえばゲオルグ・フィリップ・テレマン(1681~1767)やヨハン・マッテゾン(1681~1764)も同じことを言っています。

 チェンバロ奏者のワンダ・ランドフスカ(1877~1959)の音楽論集の中に次のような箇所があります。

 テレマンは人間の声からヒントを得ることが重要だと強調した。「声楽であれ、器楽であれどんな曲を書く場合でも、そのすべてがカンタービレでなければならない。」

 マッテゾンは『通奏低音大教程』の中で「歌い方を知らないような者は決して演奏できるようにはならない」と断言している。」

(『ランドフスカ音楽論集』ドニーズ・レストウ編 鍋島元子、大島かおり訳 1981年 みすず書房P.195)

 モダンピアノでは微細な強弱をつけてメロディラインを形作ることができるので、カンタービレな奏法も可能です。しかし、だからと言って、バッハがモダンピアノを知っていたならば当時の楽器より今の楽器を選んだはず、というのは論が進み過ぎだと思います。バッハの時代にモダンピアノがなかったという事実を無視して想像してもあまり意味がないように思えます。

 私は、1年間だけチェンバロを学んだことがありました。チェンバロで練習していると、たしかにこの楽器特有の音の表情に魅力を感じました。この間、幸運にも世界的チェンバロ奏者のズザナ・ルージチコヴァ女史(1927~2017)のレッスンを受けるチャンスがありました。ルージチコヴァ先生のようなチェンバロの名手がバッハを演奏すると、そこにはモダンピアノにはない世界があるのも事実ですが、これはチェンバロだからではなく、ルージチコヴァ先生のアプローチが素晴らしいからだということに気づきました。

 こうしてみてみるとバッハの曲を演奏するのに、歴史的に正しい楽器は何かを問うよりも、バッハの曲をいかに演奏するかを問う方が大切なことがわかります。

 バッハの代表的な鍵盤音楽である平均律クラヴィーア曲集やパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲などは鍵盤楽器の指定が書いてありません。しかし、ゴルトベルク変奏曲には、「2段鍵盤を有するチェンバロのために」と書かれています。

 ゴルトベルク変奏曲には、手の交差が頻出する変奏が多々あります。バッハと同時代のイタリアの作曲家、ドメニコ・スカルラッティ(1685~1757)は鍵盤楽器の技法を開発していきましたが、その一つに手の交差があります。バッハもスカルラッティの新しい技法を取り入れたのかもしれません。

 ゴルトベルク変奏曲の第1変奏や第2変奏のように曲頭に「1つの鍵盤で」の指示があればチェンバロ奏者は、上段の鍵盤または下段の鍵盤を使って弾く(どちらを弾くかは任意)ということになります。ピアノで弾く場合も特に問題はありません。

 「2つの鍵盤で」の指示がある第8変奏や第20変奏では、チェンバロ奏者は両方の鍵盤を使うことができますが、ピアノの場合は1つの鍵盤上で手の交差させる必要があります。

 左手の上を右手が超えて行ったり、右手の上を左手が超えて行ったりするので、右手と左手による交通障害が起こります。これをうまく乗り切るかどうかも演奏の見せ所になります。

 このリスクを軽減するために、両手の配分を変えてしまう人も現れています。つまり交差する直前で左手と右手の担当する旋律を取り換えてしまうことで、交差が起こらないようにするのです。

 2段鍵盤のチェンバロで弾けば、あるいは両手の配分を変えて弾けばリスクもないですが、私はモダンピアノでリスクを負っても演奏していきたい。私にとっての身近なクラヴィーアであるモダンピアノで、歌うように、また各声部を明晰に演奏することが、私自身の演奏の喜びに繋がっています。

髙橋 望

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