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第9回 後世への影響


ベートーヴェンとゴルトベルク変奏曲

 ベートーヴェン(1770~1827)のピアノ·ソナタ第30番は、32曲あるピアノ·ソナタの中でもとりわけ美しく抒情的な作風です。このソナタの第3楽章は、変奏曲の形式で作曲されています。この変奏曲は、ゴルトベルク変奏曲からアイディアを得たのではないか、と私は思います。


 理由としては、変奏曲のテーマが最後にもう一度反復されること、第6変奏のトリルの技法(譜例1)がゴルトベルク変奏曲の第28変奏(譜例2)と同じであること、などが挙げられます。


●譜例1


●譜例2


 どちらの曲もここでは、右手の親指と人さし指でトリル(隣接した音を震わせるように奏すること)をしながら、小指で高音部の旋律線を描いていくかたちになっています。


 ベートーヴェンとバッハの関係を見てみましょう。ベートーヴェンの少年時代の師、C.G.ネーフェ(1748~1798)は、バッハと直接の接点はありませんが、ライプツィヒ大学で学び、バッハの音楽に知悉していました。そしてバッハの平均律クラヴィーア曲集の筆写譜を所有していました。ベートーヴェンは、10歳の頃すでにネーフェの指導のもとバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾きこなし、ネーフェの賛辞を得ています。


 ベートーヴェンがウィーンに出てからは、スヴィーテン男爵邸に出入りしていました。G.v.スヴィーテン男爵(1734~1803)は、ベルリンに1770年から1778年まで駐在したウィーンの外交官で、ベルリンではバッハの次男C.P.Eバッハと親交がありました。その縁でバッハの楽譜を膨大に所有していました。


 また、ベートーヴェンの有力なパトロンの一人だったK.v.リヒノフスキー侯爵(1761~1814)は、ゲッティンゲンで、『バッハの生涯と芸術』(柴田治三郎訳、岩波文庫)の著者でゴルトベルク変奏曲の逸話を書き残したJ.N.フォルケル(1749~1818)と知遇を得て、バッハの楽譜を収集しています。


 おそらくベートーヴェンは、スヴィーテン男爵やリヒノフスキー侯爵らとの交流の中で、ゴルトベルク変奏曲を知ったのではないでしょうか。

 

 ベートーヴェンは、若いころから数多くの変奏曲を作曲しています。ピアノのための変奏曲、チェロとピアノのための変奏曲などがあり、ヴァイオリンとピアノのソナタの中にも変奏曲の形式をとった楽章が多くあります。しかし、ピアノ·ソナタ第30番の変奏曲のようにテーマ~変奏~テーマの形を取っている曲は他にありません。


E.T.A.ホフマンとゴルトベルク変奏曲

 作家であり、音楽や美術に造詣の深かったE.T.A.ホフマン(1776~1822)の奇想天外な小説『クライスレリアーナ』(伊狩裕訳、国書刊行会)には、主人公クライスラー楽長がゴルトベルク変奏曲を演奏する場面があります。


 それは次のようなものです。


 クライスラー楽長がサロンでの演奏の合間に、ある侯爵から「うっとりとするような幻想曲を弾いてほしい」とリクエストを受けます。楽長は「幻想曲は品切れです」とにべもない返事をすると、伊達男に化けた悪魔が隣室からバッハの変奏曲の楽譜を見つけてきます。「この変奏曲を弾いてほしい」というリクエストを楽長が断ると、周囲から非難轟々になりました。


 そこで楽長は「ならば耳を傾けるがよい。退屈の極みに悶絶するとよい」とゴルトベルク変奏曲を弾き始めます。第3変奏でご婦人方数名が退出。第12変奏までじっと耐えた人もいる。第15変奏でチョッキの男が出ていった。第30変奏まで居残った侯爵の礼儀正しさは尋常ではなかったと。

 要するに、この長大な変奏曲を聴きとおせる人は、わずかしかないということが書いてあるのです。


 バッハの死の60年後には、小説に登場するほど知られていたゴルトベルク変奏曲ですが、同時に「退屈」の象徴となるくらいの長大さも際立っていたということでしょう。



T.S.エリオットとゴルトベルク変奏曲

「荒地」などで知られるイギリスの詩人T.S.エリオット(1888~1965)の「四つの四重奏」に以下の詩句があります。

We shall not cease from exploration

And the end of all our exploring

Will be to arrive where we started

And know the place for the first time.


われらは探求をやめまい

探し求めることがおわれば

出発点にたどりついたことがわかるのだ

そしてそこが見知らぬ地だと悟るのだ


 この詩句の意味を、私は次のように解釈しています。

旅(探究)は、長い道のりののち、めぐりめぐって出発点に還ってくる。

しかし、その出発点は、当初と異なる新しい姿を見せてくれる。

それは自身の内面の成長や変化によって生じるのだ。


 この詩は、ゴルトベルク変奏曲について書かれたものではありませんが、これを読んだとき私は、ゴルトベルク変奏曲の魅力について語っている詩のように感じました。


 ゴルトベルク変奏曲は、アリアで始まり、30の変奏が続き、再びアリアで終わります。30の変奏を聴いたあとには、最後のアリアが最初とは異なって聴こえることでしょう。出発点という言葉をアリアに置き換えてみてください。なぜ異なって聴こえるのか。おそらくそれは、30の変奏のうちに自身の内面の成長や変化が生じるからではないでしょうか。


 演奏家と聴衆が、この曲を通じて、それぞれの内面の成長や変化に耳をすますことができるのは、なんと素晴らしいことでしょうか。これがゴルトベルク変奏曲を演奏すること、聴くことの喜びだと思います。


 嬉しい時、哀しい時、どんな時でも受け入れてくれるのがバッハの音楽だと思います。いくつもの声部が生き生きとしていて、どれか一つのメロディに肩入れすることがありません。すべてが調和の上に成り立つ音楽は、演奏する側も、聴く側も余計な負荷がありません。


 いつもポケットに入れておくことで、よりよく生きることができる──ゴルトベルク変奏曲はそんな曲だと思います。

髙橋 望


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