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『Lost and Found』 まえがき

まえがきーこの小冊子と人間学工房のこと

中村寛

言葉なんかおぼえるんじゃなかった 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる (田村隆一,「帰途」『言葉のない世界』)

同時代への触れ方を、等身大の言葉で  この小冊子は、多摩美術大学に在籍する若き〈つくり手たち〉との共同作業から誕生した。タイトルは『Lost and Found』。辞典を繰れば「遺失物取扱所」と出るし、文字通りとれば「失った、そして、見つけた」という意味になる。けれども言葉は、ひとつの意味だけを固定的に担うわけではないし、英語と日本語が一対一で対応するわけでもない。僕らは、この三語の連続から成る句に、「失ったもの(喪った者)、見失ったこと、忘れてしまったことを、ふたたび、見つけだす」といった意味をこめた。  しかし、最初からこのタイトルが決まっていたわけではない。先にあったのは、多摩美に籍を置く人たちと一緒に、ひとつのテーマのもと、冊子のようなものをつくりたいというアイディアだった。そして今回、その冊子づくりを担ってくれた三人に投げかけたテーマは、〈同時代とアート〉だ。大きなテーマで、語り尽くされてきた感もある。それでも、大学にいる間に、自分たちはどのような時代に生きていて、自分にとってのアートとはいったいなんなのか、なにが自分にとっての切実なテーマであり、表現としてのアートは現代社会とどのようにかかわりあうことができるのか、そんなことを掴みなおして言葉にしてほしいと思った。一般論や社会批評としてではなく、等身大の自分の言葉で。  言い換えれば、自分たちなりの同時代への触れ方を、言葉にしてほしいと思ったのだ。彼らならそれができると思ったし、それが等身大の言葉であればあるほど、そして自分に身近な、〈二人称の〉問題として提示されればされるほど、多くの人が読んで意味のあるものになるのではないかと思った。もちろんテーマの投げかけは、一種のきっかけづくりにすぎない。言葉が引きだされれば、それでよいと大きく構えて始めることにした。  集まってきた文章を吟味したうえで、「同時代とアートを切り結ぶ」というサブタイトルを決定した。「切り結ぶ」は、辞書的な定義によれば「刀を交えて切りあう」という意味なので、厳密に言うとこの語法は存在しないことになる。けれども同時代とアートの関係を一度ほぐしてみたうえで、根底からつくりなおすという意味をこめて、言葉の配置を決めた。

人間学工房の取り組みから  そもそも冊子づくりのアイディアは、いくつかのプロジェクトが重なりあうなかから生まれた。  2008年、多摩美術大学で初めて授業を受け持った僕は、授業参加者たちの反応のよさに驚かされるのと同時に、彼らの多くが同時代に向きあうための言葉を切実に求めている印象を持った。そうした印象は、彼らの書いてくるレポートや直接の会話のやり取りのなかから得られたものだ。僕の授業で扱うテーマが、暴力や社会的痛苦にかかわるものが多かったからかもしれないが、彼らの書くレポートは、日々覚えている違和感を消さずに書いたものが多かった。自らの痛みの経験を淡々と書いてくれた人もいる。書かれたものの形式美という観点からは、完成度が高いとは言い難かった。誤字脱字や文法的な間違いが多く含まれ、論理の飛躍や破綻があった。ごくまれに美しい文章を書く者もいたが、ほとんどは洗練されない文章表現だった。けれども、そこには表現されるべきなにかがあるように思えてならなかった。  しばらくしてから、美大生たちが言葉を読み書きしたり、仲間と議論したりする場が大学にほとんどないことを知った。そして、彼らのうちの幾人かは、対話の機会を強く欲していた。ある学生が言った。同じアトリエ内の横で絵を描いている人がなにを考えているのか知りたい、と。日常的な会話のやり取りはたくさんあった。授業や課題についての情報交換もある。けれど、友人との間に生じる個人的な話題と、より大きな社会問題とを往復し、丹念に言葉を重ねることのできる場所がないようだった。別の学生が言った。言葉や論理を重視して発表すると、指導員から「頭でっかちだ」「理屈っぽい」と言われる、と。日本のアート界において、いまだに「感性」や「感覚」などが神秘的な意匠をまとわされ、「言葉」や「論理」と対立するかのように扱われていることに唖然とした。  対話の場所がない。言葉を鍛える機会がない。そんな風に嘆くのは簡単だけど、嘆いても改善はしない。だったら自分たちでつくろうか。そう思っていた矢先に、授業に参加してくれた学生数名から、議論のできるゼミナールのようなものを開催してほしいと声をかけられた。僕はこれを絶好のチャンスと捉え、自主ゼミナールをスタートさせた。何度かの集まりの後、僕らは一緒に本を読んだり映画を観たりして議論を重ねるようになった。自分の作品をプレゼンテーションしてくれた人も多い。混乱を含んだ言葉の数々を、長い時間をかけて互いに聞きあった。集まりを始めて数カ月後に3.11の震災があり、福島の原発事故がある。その後には、数名の参加者がメールで、実際に集まるのは難しいけれど、こんなときだからこそ仲間で言葉を重ねたいと提案があった。祖母のいる被災地にボランティアに行き、そこでの経験を語ってくれた人もいた。集まりは口コミでも広がっていき、最終的には多摩美だけでなく、僕がここ三年ほどの間にかかわりを持った大学や大学院(中央大学、明治学院大学、一橋大学大学院など)の学生や卒業生たちの集まりへと発展した。  集まりがひとつの大学を越えたところでまずやったことは、アートにまつわる一般的なイメージを取りはらい、その定義をつくりなおすことだった。アートを、芸術家やデザイナーなどの一部の特殊な専門集団に委ねてしまう必要はまったくない。アートの語源は〈技〉なのだから、絵画やデザインだけでなく、論文や小説、料理、酒造り、漁業、農業、社会運動、組織運営など、すべて広い意味でのアートだと考えることができる。そう考えることで、バックグラウンドの異なる人びとがともにできる活動の幅も広がる予感があった。そしてこの集まりは、大学における僕の重要な活動の場になっていった。2012年度には、映画の自主上映会の企画・運営や共同での絵本の制作なども行なうことになった。  僕はこの集まりを、自主ゼミナール・人間学工房と名付けた。人間学工房はもともと、大学の授業案として思いたち、その後、共同作業を通じて仕事をともにする場所をつくれないかと考えだしたアイディアだった。真っ先に声をかけたのは、すぐれたフィールドワーカーで、『「忘れられた日本人」の舞台を旅するー宮本常一の軌跡』(河出書房)や『駐在保健婦の時代 1942-1997』(医学書院)などの著作のある木村哲也氏と、編集者(大月書店)として数々の意義深い作品を世に送りこんできた西浩孝氏だった。彼らとのプロジェクトは現在も進行中だが、それとは別に大学内でも学生たちと一緒に共同作業の試みをできないかと考えた。それが自主ゼミの始まりだった。 多摩美生たちは、物心ついたときにはすでに絵を描き始めていた人が多い。そして、その後も予備校に通い、なんらかのトレーニングを受けている。そのため、手を動かせば、それなりに絵が描けたり、物がつくれたりしてしまう。だからこそ余計に、対話や共同作業を通じて、言葉や感性を持ち寄り、ぶつけあい、鍛えていく場所が必要に思えた。自分のつくっているものはなんなのか、現代社会におけるその意味やインパクトはなんなのか、等々。そんなことを今一度考えなおす場所だ。省察を欠いた創作を手放しで喜べるほどお気楽な時代に、僕らは生きていないはずだ。だから、つくり手が、ポジティヴにばかり語られがちな創造という営みの条件や意味を、振り返り、考えることのできる文化をつくっていきたいと思った。自らの想像力の限界を、想像しようとする文化を。  文化をつくる。その発想は、敬愛する環境活動家で文化人類学者の辻信一氏から得たものだ。彼は、さまざまなユニークな活動をつづけながら、こう繰り返して語っている。僕らは文化をつくっている、こんなに楽しいことはない、と。ここで言う文化を、一見なんでもないような所作や仕草、考え方の癖のなかにあらわれるものと考えるなら、そうした文化をつくるのには、おそろしく手間と時間がかかる。そしてそれは、すぐには成果として見えない。けれども、一生を捧げるに値する、とても楽しく味わい深い仕事だと僕も思う。  文化をつくる営みに必要とされるのは、専門分化を経て近年ますます細分化の道をたどる文化人類学の知見だけではなく、今まさに自分も加担し、巻き込まれてもいる動的な現象の流れや枠組みをつかみとる〈人間学〉のエピステモロジー(認識論)だろう、と僕は思う。そして、〈工房〉と名付けたのは、共同作業の場としてのアトリエをイメージしてのことだった。前述の西氏は、工房は酵母でもあるのだ、練ることで、寝かせることで、熟成した作品へと仕上がっていくのだ、と語っていた。

冊子の〈つくり手たち〉  人間学工房の活動をつづけるなかで、一部の学科を除いて卒業論文を書く機会のない多摩美生と冊子をつくろうと思いたった。最初に声をかけたのは、平山みな美と吉國元だった。夜間部の学生である彼らは、普段から仕事を抱えながら大学での課題をこなし、さらにそれに加えて自分たちのプロジェクトを進めていたから、かなり忙しさだったと思う。しかし、提案に快く応じ、作業を楽しんでくれた。  僕らはスケジュールを合わせて場所を設定し、持ち寄った文章をみんなで読みあわせ、そのうえでコメントを述べあった。課題レポートではまずやらないであろう、共同での推敲の作業を経験してほしかった。それと同時に、彼らの言葉がすべすべになってしまわないように、僕としてはなるべく気をつけた。洗練された表現は、読み心地のよい、それなりにすぐれた文章になるかもしれない。けれども、顔の見えない文章になりがちだ。それだけは避けたかった。  文章を読みあう機会を何度か持ったところで、もうひとり、大沼彩子にも声をかけた。彼女は夜間部からスタートし、その後昼間部の別学部に転部していた。そして、大学に所属しながらも、声をかけたときにはすでに働き始めていた。  大沼彩子と言葉を交わしたのは、僕の担当した「アメリカ文化史」の授業を通じてだった。先述の辻信一氏たちが始めたナマケモノ倶楽部の活動を授業中に紹介した際に、彼らのつくった、エクアドルの音楽家パパロンコンのCDをかけた。授業後に彼女は、そのとき制作中の作品にパパロンコンの音楽を使いたいので、是非貸してほしいと言ったのだった。そうやって彼女と言葉を交わすようになった。その後、彼女が「シミ」とそこにあらわれるかたちのあり方にこだわって制作をつづけていること、多摩美に入学する前にすでにアニメーターとして仕事をしていたが、どうしても自分の作品を制作したくなって大学に来たことを知った。そして彼女は、人間学工房のなかから誕生した別プロジェクトである、映画『幸せの経済学』(ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ他監督、2010年)の自主上映会に深くかかわってくれた。自主上映の企画が持ち上がったとき、是非実現させたいと真っ先に言ってくれたのは彼女だった。この冊子では彼女は短い文章も書いているが、彼女自身のテーマである「シミ」を題材にし、それに詩をつけた作品を披露してくれる。  平山みな美と初めて会ったのは、英語の授業を通じてだったように思う。遅刻する学生が少なくなかった授業で、彼女だけは、毎回必ず始業前に教室に来て席に着き、授業中も凛とした表情で話に耳を傾け、ノートを取っていた。しばらく経って話を交わすようになってから、多摩美に進学することを決めて高校卒業後の三年間必死になってお金を稼ぎ、トップの成績で入学してきたこと、人間中心主義的ではない発想や考え方に強く惹かれまた影響も受けていることなどを知った。やがて、彼女が友人たちと高校時代につくったという映画『虹色★ロケット』を貸してくれた。彼女が脚本の要を書き、出演もしているその映画を初めて観たときの衝撃は今でも忘れられない。ヒリヒリとした違和感を身にまとった高校生たちの等身大の表現がそこにはあった。脚本、監督、撮影、演出、美術にいたるまでのすべてが手づくりで、その作品に自分たちの持つすべてを注ぎこもうとする熱気に満たされていた。とりわけ、平山みな美自身によって演じられるミナミが、「夢は世界を変えること」と語り、他者や人間種以外の生命を踏みつけることで生きながらえる人間の傲慢さと欺瞞とを許すことができず、自らの身体を消し去ろうとしていく姿が強く印象に残った。かつての自分が、その姿に重なって見えた。この冊子では彼女は、自分にもっとも強い影響を与えた三人の人物に宛てて手紙を書くことで、「同時代とアート」というテーマに応えようとしている。  吉國元と初めて会ったのもまた、英語の授業を通じてだった。きれいな英語を話すなと思い、訊ねてみると、ジンバブエに生まれ、十歳までをそこで過ごしたという。授業のなかで、小さい頃からこれまでに描いてきた絵のいくつかを持ち寄り、プレゼンテーションしてくれたこともあった。それらの絵の主題と表現に心を動かされた。たとえば、十歳のときに描いたという『Butcher』と題された絵は、顔の見えない肉屋の主人が包丁を手に動物を解体している瞬間を捉えたものだ。それは、彼の原風景を切りとったもののように感じられた。また、日本に戻り、高校を卒業した頃に制作した『犬と屏風』には、革ひもにつながれた犬が描かれ、さらにその後に職を得て働いていた頃に制作した『ある夏』では、檻に閉じ込められた金魚が描かれている。これらの絵は、そのときに自分の置かれていた状況に対する皮膚感覚をあらわしているのかもしれない、と彼自身は振り返った。日本に「帰ってきた」にもかかわらず、ここに(あるいはどこにも)自分の居場所がないという感覚、そして日本のなかでの独特の閉塞感と生きづらさ。それは、僕自身もまたアメリカでの高校生活を終えて日本に戻ってきたときに、少なからず経験したことだった。この冊子では彼は、自分にとって絵を描くという営みがどのようなものであり、それが自分の生きて見てきた世界とどのようにかかわるのかを、言葉で描いている。  僕自身は、アメリカ先住民のコミュニティを訪ねたときのことを綴った小文を用意した。写真家の友人の松尾眞とともに二年前から始めた旅の途上で生まれた、言葉によるスケッチである。今回は彼の撮った写真と合わせてひとつの小作品とした。  創作のスタイルやバックグラウンドは異なるが、大沼彩子、平山みな美、吉國元の三人に共通するのは、自分の暮らす現在の社会に対する違和感であり、その違和感を殺さぬままに、社会の病を見据え、生じる痛みや歪みにやわらかく触れようとする感性だ。そうした感性を保ちつづけることは、きっとマイノリティであることを意味するに違いない。有能なクリエイターはいくらでもいる。だから交換可能だ。けれど、三人によって体現された感性は、取り換えがきかない。それを僕は、大切にしたいと心の底から思った。

 半年以上かけて準備してきたこの小冊子を、ようやくかたちにすることができた喜びは大きい。身銭を切る覚悟で非公式に進めてきたプロジェクトだが、印刷や製本にあたっては多摩美術大学から思わぬかたちで支援を受けることができた。謝意を表したい。  世田谷区上野毛キャンパス夜間学部出身の〈つくり手たち〉によるこの小冊子を、手元に置いて、じっくりと何度も味わっていただければ、とてもうれしく思う。

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