『Lost and Found vol.3』 はじめに
はじめにーこの小冊子について
中村寛
四月に口をひらき 声のない喉に 羽をもだえ巣作るものは 背姿ふかくコンビナートの幻崩れ 手の都市へのつまずき 脚は藁の牢獄の窓わくをにぎる 聴け 四月に口をひらき 無声の意味ふるえる四肢は 自然と工業をつらぬく河のほとり 身をこごめ倒れてのち 行為のことばに喉を破る 現実の河口はわたしの前で死ぬ 聴け 季節のかなたへ そのとき声を破り 膿ながす燕は翔びたつ (黒田喜夫「彼方へ―四月のうた」)
この小冊子も今回で三巻目になる。冊子をつくりはじめた経緯についてはすでに一巻目の序文に書き、人間学工房のウェブサイト上にも掲載してあるので、ここではくり返さない。今回もまた、語るべきなにかを持っているように見えた幾人かに声をかけ、非制度的な場所をつくることからプロジェクトがはじまった。そしてこれまでと同様、「同時代」というキーワードを投げかけ、いまの自分にしか書けないものを、等身大の表現で、なまなましく書いてほしいとお願いした。それぞれが書いたものを持ち寄り、それを音読してもらい、さらにそれを踏まえてコメントや感想をだしあった。
こうしたプロジェクトを数年前に思いついたきっかけはいくつもあった。ひとつは社会学者のテリー・ウィリアムズらが一九九〇年代にニューヨーク・ハーレムではじめた《ハーレム・ライターズ・クルー》の試みだった。これは低所得者向けの公営団地に暮らす若者たちに日誌を書いてもらい、それを読みあうことで、各人が集合的に経験をふり返り、言葉を獲得し、ネットワークを築く、そういう種類の文化運動だった。文脈はまったく違うが、日本で起きた生活綴方運動や生活記録運動、各種の識字運動とも関連が深い。なによりもこの種の運動の魅力は、書いたものを基軸に言葉を重ねることで、ある種の化学反応が起こることだ。 今回もまた、そういうことが起きた。ひょっとすると、これまでよりも深いレベルで起きたかもしれない。書いていることはそれぞれバラバラで固有の経験に基づいているのだが、書かれたものにどこか通底するテーマやトーンが見受けられるのはそのためだ。必ずしも明示的ではないかもしれないが、「暴力」や「死」、「闇」、「病」、「歪み」というテーマがあらわれ、しかし同時に、それらを受けとめ、向きあい、抗い、生き延び、生きなおそうとする力が表現された。
そのようなことを考えて、サブタイトルは「生きなおす、同時代」とした。横浜の寿町にあるドヤ街で長年にわたって識字運動を展開した大沢敏郎氏の著作『生きなおす、ことば―書くことのちから 横浜寿町から』(太郎次郎社エディタス、二〇〇三年)を強く念頭においてのことでもある。長年の運動と蓄積のうえに編まれたその書への畏敬の念もあり、ためらいがないと言えば嘘になるが、ささやかなオマージュになればと思った。
今回の執筆者・参加者たちについて、簡単に触れておきたい。
後藤響子は、多摩美術大学の日本画専攻生(二〇一六年三月卒業予定)で、数年前に「文化人類学」を受講してくれた。その後、時折中央大学のゼミナールにも参加してくれるようになり、話をするようになった。毎回、言葉のまえで逡巡をくり返し、断言することへの戸惑いや含羞が見てとれた。同時にそこには、憶測による断定の暴力と、沈黙や傍観の暴力との両方にじっくり向きあおうとする姿勢があるように感じられた。今回の文章でも、そのようなものごとへの《かまえ》はよく表れているように思える。はっきりと明示されたものより、漂うもの、傍らにあるもの、通過してゆくもの、そういうものに傾注しようとする《かまえ》だ。そして、本冊子にも掲載されている絵画《岸辺へ》の実物は、みごとなできばえの作品だった。
井沼香保里は、数年前に一橋大学の大学院での授業に参加してくれた。通常、大学院にはいって勉強をつづけると、知識量は増える一方で、思考の枠組みがかたくしこってゆく。知の技法が身につけば身につくほどに、よくもわるくも問いの立て方が同質のものになり、「界」のなかでの差異化のゲームへの参入が容易になり、それと同時に、態度やふるまい方や物腰までもが均質なものになってゆく。だが彼女は、大学院でも自らの思考の枠組みを解体に向かわせるようにして探究をすすめているように見えた。そしてそれは、(残念なことではあるが)大学や大学院という「知的」で「批判的」であることを自負する「界」において、とても稀有なことなのだ。今回の文章でも、彼女は自らを過剰に守ることなく、最も素朴な感情や感覚のレベルにまで立ち入って、自身の経験を書いている。
ユリィ(仮名)は、僕が明治学院大学の「文化人類学」の科目を一学期間だけ受け持ったときの受講生だった。毎回の授業後に書いてもらうレビューや学期末レポートから、彼女がとりわけ女性が被る暴力の問題に向きあおうとしていることを知った。一学期間の授業を終えたあとも、卒業後も、多摩美術大学や中央大学の授業に何度も参加してくれた。そして、昨年の春、彼女がこれまでに書いてきた日誌の抜粋を受け取った。むき出しの暴力を受けつづけたその渦中で、かろうじて綴った《言葉のスケッチ》だった。親密圏で起こる卑劣で凄惨な否定の報告であり、そのなかでなんとか自らを肯定して生き抜くために紡いだ言葉だった。引き込まれるようにして、一気に読みおえたのを憶えている。今回はその一部をそのまま採用しながら、物語のような作品を書いてくれた。
大和田慧とは、二〇一四年のニューヨーク滞在中に、写真家の友人である松尾眞を介して出会った。ちょうどアポロ・シアターでのコンテストを勝ち上がって三回戦を迎えたときのことだった。アポロ・シアターは手厳しい聴衆が多いことで知られる。少なくとも最初から「歓迎」してくれる場所で歌うのとはわけが違う。尻込みしたり、小さなミスがあったりしてブーイングが大きくなれば、パフォーマンスの途中でもステージから降ろされてしまう。そのような雰囲気のなか、それでもステージ上の彼女は、オリジナル曲を堂々と最後まで歌いきっていた。ステージ後に言葉を交わし、しばらくしてから彼女が以前に書いた卒業論文を送ってくれた。両性具有をテーマにアイデンティティや人と人との関係の結び方、コミュニケーション論に踏み込むようなおもしろい論文だった。今回も、卒業論文に言及しながら、歌やコミュニケーション、そして人間存在をめぐる自らの葛藤や奮闘を書いている。
(一部略) 死の衝動は、誰にでも起こり得る。生きるのがつらくて仕方がない、周りの人間が完璧に見える、いっそ生きるのをやめれば楽になるのではないかと思う、そしてそう思ってしまう自分に苛立ち、責める。症状は個人差が大きいから、一般化は難しいかもしれない。けれども、経験的に言って、これは幾度もくり返される。そして、よりよく生きたいと強く思えば思うほど、症状は深まる。でも僕は、そういう「病」や「闇」を抱えた人に会うたびに、彼ら、彼女らにこそ、生き延びてほしいと思う。不器用でも、人に頼ってでも、弱くても、なにもできなくても、逃げても、隠れても、生きてほしいと思う。それすら難しいときも、ただ、死なないでいてほしいと思う。
冊子のデザイン面で大きく貢献してくれた岩間朝子は、多摩美術大学の造形学部(夜間部)の授業に熱心に参加してくれた。政治的な問題、暴力や痛みにかかわる問題、記憶や歴史に関する問題にとくに強く反応し、いつも真剣なまなざしで、繊細な問いを発した。言葉を交わすようになってから、彼女が十年以上をドイツの地で働いて暮らしてきたこと、「pop-up café」という魅力的な文化運動を長年にわたって友人たちと継続してきたことなどを知った。今回の冊子の企画にも最初から参加し、苦しみながらも自らの切実な経験を静謐な文体で表現してくれたのだが、最後の段階で、文章の公表を見送りたいと伝えてきた。理由のひとつは、自分が書いた状況に動きが生じ、それについて書くことの意味が変化したから、というものだった。ずっと《共同で書く》ということをやってきたので、残念ではあるけれど、彼女の意思を尊重し、その決定にしたがいたいと思う。とはいえ、彼女は皆とともに最後まで文章を書き切るところまではたどり着いた。そして、冊子のデザイン面では最後まで大きく貢献をしてくれている。 僕は、前回までと同様、写真家の松尾眞とアメリカの〈周縁〉をあるくプロジェクトのなかで生みだされた紀行文を掲載した。
全体のレイアウトやその他のデザイン面では、多摩美術大学の卒業生であり、『Lost and Found』の一巻目の参加者でもある平山みな美さんにお世話になった。海外に暮らしながら惜しみなく力を貸してくれる彼女の存在なしには、今回の冊子の完成はなかったと思う。心からの感謝の気持ちをおくりたい。また、印刷・製本に関して、実務面では瞬報社の中村寧男さんにお世話になり、資金面では多摩美術大学の支援を受けた。謝意を表したい。
それぞれの等身大の言葉で表現された同時代とそこにあらわれたある種の決意を、やわらかく受けとめてもらえたらうれしく思う。
二〇一六年三月 中村寛
コメント